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大日向山 大陽寺

■[東国の女人高野山」と称される所以は?


大陽寺は、鎌倉時代末期の正和二年(1313年)後嵯峨天皇の弟3皇子仏国国師(通称 鬚僧大師)によって開山された。当初は断崖に小さな祠(ほこら)がはりつくように建っていたと風土記稿にしるされているとおり、かなり粗末なものだったらしい。
 東国の女人高野山と称されるようになったのはかなり後になってからで、断崖絶壁でとても人が寄り付けなかった渓谷を切り開き、参道をつくり、そして当時の山岳信仰の寺社では考えられなかった女性の参拝を認めた。その結果として江戸時代には、山岳寺社のほとんどが女人禁制の中、女性が参拝できる数少ない寺社の一つとして多くの参拝者で賑わったといわれている。
秩父十三仏霊場のひとつでもあり、本尊は釈迦如来、県文化財指定の閻魔堂には江戸時代作の木造閻魔大王坐像を中心に十三体の仏像が安置されている。


■罪業を消滅する「阿閦如来」は、秩父十三仏霊場のひとつ

 
秩父十三仏霊場のひとつである大陽寺の阿閦如来は密教では金剛界曼茶羅の四仏の一人として重要な地位を占めている。
 尊名の阿閦とは、サンスクリットのアクショーブヤの音写語で、揺るぎない・動じないなどの意味である。漢訳では無動仏・不動仏などと翻訳されている。ともすれば何につけ、すぐに諦め、長続きしない私たち。阿閦如来に祈るときにはその功徳によって、私たちが何事にも揺るぎない心と、怒りを離れた安楽な世界を得られるようにとお祈りをする。人々のもつ罪業を消滅する阿閦如来と心をひとつにしつつ。
 
臨済宗建長寺派 大日向山 大陽禅寺


父後嵯峨天皇のあと、持明院統と大覚寺統に分かれ、のちの南北朝時代へと向かうことになる。ちなみに後嵯峨天皇の第一皇子は後深草天皇(持明院統)。第二皇子は亀山天皇(大覚寺統)。そして、第三皇子が当山開山仏国国師である。
第二皇子亀山天皇の孫にあたるのが後醍醐天皇で、鎌倉幕府をたおし、建武の親政をはじめた天皇としてしられる。しかしその後足利尊氏との争いに敗れ、尊氏が奉じる光明天皇に位を譲る。
一方、京の幽閉から逃れた後醍醐天皇は吉野に南朝政府を樹立。南北朝時代の幕開けとなる。後世、さまざまな批判にさらされた尊氏ではあったが、後醍醐天皇崩御の後、京都の嵐山に天竜寺を建立。天皇の冥福を祈ったとされる。このとき天竜寺の開山として迎えられるのが、仏国国師から禅を学び、徳治二年(1307年)法衣をついだとされる夢窓国師である。
余談
(仏国国師が去った後の皇室では)

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